日本の就活は没個性なんかじゃありません。
「日本の就活は没個性なんかじゃない」にお越しいただきありがとうございます。
平本 亘(@follow_me_peace)です。
今回の記事では、日本の就活で言われている【没個性】という主張に関して、「日本の就活は没個性なんかではない」と考えられる理由が解説します。
日本では就職活動の時期になると
日本の就活は没個性だ!
みんな同じリクルートスーツで、個性が尊重されていない!
と言った意見や報道が散見されます。
このような【就活没個性論】に対する批判を読んで、日本で就職活動をしようと考えているあなたが、個性について考えるきっかけになれば幸いです。
こんな人におススメ
- 日本で就活をしようとしている方
- 就職を前に個性について考えている方
目次
日本における【就活没個性論】
日本では就職の時期になれば
日本の就活は没個性だ!
みんな同じリクルートスーツで、個性が尊重されていない!
と言った意見や報道が散見されるようになると思います。
2017年にも脳科学者で有名な茂木健一郎さんがリクルートスーツに関して
というツイートしていました。
茂木さんのような著名人だけでなく、一般の方も
リクルートスーツは没個性的だ
と思っている人が多いように感じます。
たしかにリクルートスーツを着れば、見た目の面において自分の特徴を表現できるポイントが減ってしまいます。
しかし、その見た目だけで没個性だ、というのはいささかお粗末なような気がしています。
日本で就活をする前に考えたい!本当の個性とは?
では、いったい個性とはいったい何なのか?一緒に考えていきましょう。
本当の意味での個性を考えるために
の二つを紹介します。
V, E, フランクルの『夜と霧』を読んで個性について考えよう
まずはじめに、V,E,フランクルの『夜と霧』という本を紹介します。
V,E,フランクルは、第二次世界大戦中にアウシュビッツ強制収容所に収容されていた精神医学者です。
『夜と霧』では、当時の経験やアウシュビッツ強制収容所の内部に関して詳細に語られています。
アウシュビッツの中では、着るものをすべて奪われた。
紙の毛のみならず、体のありとあらゆる部位の毛を剃られた。
財産も奪われ、名前さえも奪われた。
人間の尊厳に関わるものは何もなく、残ったのは番号だけだった。
※『夜と霧』より抜粋。筆者により要約
みなさんは、このような状況をイメージすることは可能でしょうか?
あなたに残ったものは番号だけ。
あなたを表現するものは番号だけ。
もし、みんなが同じリクルートスーツを着ていることが没個性的だというならば、アウシュビッツに収容されていた人々には個性がなかったということになります。
本当にそうなのでしょうか?
また、このような状況で人間がどのような行動をとるのかを『夜と霧』で説明しています。
ある人物は、嘆き悲しみ
別の人物は、収容している人間に歯向かおうとします。
また別の人物は、上官に媚を売ることもありました。
それとは逆に、同じ境遇にある仲間を助ける人物もいたかもしれません。
※筆者要約
人間としての尊厳がすべて奪われた状況に於いて、その人物によって違う行動が見られるようです。
これを個性と呼ばずして、何を個性と呼ぶのだろうかと僕は思うのです。
言い換えるとするならば
個性とは外から判断できる見た目ではなく、人間の内面に潜む「どのように生きるか?」というところに個性が隠れている
のではないでしょうか?
つまり、みんなと同じリクルートスーツを着て、同じ見た目になることでこそ個性が際立つのではないかと言えるのです。
狂言の能役者さんの話を聞いて個性について考えよう
個性を理解するために、狂言の能役者さんの話を紹介します。
僕は、狂言を演じる能役者さんのお話を伺う機会がありました。
彼は、こういいます。
能役者は小さい頃から、基本形である【型】というものを幾度なく練習します。
自己流なんて言うものは表現できません。
また、狂言を演じる際は能面を被るため、見た目で自分を表現することはできません。
日本の就活でリクルートスーツを着せられた就活生と同じです。彼らもまた、面をかぶせられて見た目を表現することができないので。
しかし、彼はこう続けます。
こういう状況だからこそ、個性が際立つんですよね。
みんな同じ顔、みんな同じ服装、みんな同じ型を行うからこそ、それでも消えない個性が際立ってくるんだよね。
何年も何年も基本形の型を練習し続ければ、その型にさえ個性が付いてくるのです。
まったく同じ演目を他の役者さんが演じたとしたとしても、全く同じ作品にはならないのです。
日本の就活は没個性なんかじゃありません
以上、今回の記事では、日本の就活で言われている【没個性】という主張に関して、「日本の就活は没個性なんかではない」と考えられる理由が解説しました。
- V,E,フランクルの『夜と霧』
- 狂言の能役者さんの話
の2点から、みんな同じリクルートスーツを着用して挑む就活でさえも、没個性ではないと主張しました。
V,E,フランクルからは
全ての自由、表現の手段が奪われた状態にでも残るものこそが個性
だと考えることができます。
狂言の能役者さんのお話からは
どんなに同じものを演じようとしてもそれでも個性は溢れ出るのだ
と言えます。
さて、日本の「就活没個性論」について、もう一度考えなおしてみてください。
日本の就活は没個性だ!
みんな同じリクルートスーツで、個性が尊重されていない!
ここまで、いかがだったでしょうか?
個性は、同じ服を着せられただけで、奪われてしまうようなものなのでしょうか?
もしそうだとすると、本当に個性がないのかもしれませんね。
今回の記事が、これから就活を迎えるみなさんの参考になれば幸いです。